あなたの知らない中国語!

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2022年1月13日(木) 每天五分钟 中国語リスニング 我的童年・寺庙情节3 私の少年時代・寺院愛3

あなたの知らない中国語!

 

「2022年1月13日(木) 每天五分钟 中国語リスニング 我的童年・寺庙情节3 私の少年時代・寺院愛3」

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どうぞこの記事のコメント欄にて中国語や中国文化についてのご質問をどしどしご投稿くださいませ!

欢迎您提出各种问题!

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原文

今日のリスニング


大家好!上两集的“寺庙情节”中我介绍了我拜过两个佛教的师傅,一个在我一岁的时候,另一个在我六岁的时候。有人可能会问了,师傅拜两个没问题吗?答案是,如果你是普通人,换一种说法就是拜师成为“俗家弟子”的话是可以的。所谓的“俗家弟子”就是不真的出家做和尚尼姑,而是以一般人的身份入佛门的弟子。这些人不需要剃发,所以又叫“带发弟子”。


我们家乡的习惯是“俗家弟子”拜几个师傅都行,甚至可以说是越拜多越好。师傅越多,保佑你的力量就越强。当然了,你作为徒弟也是有一定的责任的。除了拜师时要交钱之外,原则上来讲师傅有困难的时候你需要去帮助他。比方说师傅身体不好的时候你要去服侍他,去世的时候你要去送他,平时最好也能够多给师傅的寺庙进香、送礼、送贡品等。中文有一句话叫做“一日为师,终生为父”,说的就是对自己的师傅要尊敬。


反过来徒弟也有权利请师傅来给自己帮忙。比如家人去世后在家里做法事时你既可以随便找一个和尚来家里念经,你也可以把你的师傅叫过来帮你念经送故人。


但是由于现代人很忙,一般很难做到孝敬师傅的各种行为,尤其是在身边服侍等。所以实质上很多人拜了师之后基本就不会再做更多的事情了,最多也就是一年去这家寺庙里上一次香,供一次贡品,顺便跟师傅打个招呼之类的。反过来一般徒弟也不会真的去麻烦师傅来帮自己做什么,双方维持着一种几乎没有关系的师徒关系,这也算是一种“现代化”的关系吧。


不过在师傅去世的时候弟子们出钱或者去送别的人还是不少的,有名的大师圆寂时你经常会看到寺庙里聚集了成千上万的信徒给他送行,可见大家还是一定程度上惦记着师傅的。所以说如果拜师傅的数量有一个上限的话,那么应该就是你心里惦记得过来的师傅的数量,也就是一年可以去看一次的师傅的数量吧。

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今日の単語とフレーズ


○○几个/多少都行

どれだけあっても大丈夫、という意味です。動詞と組み合わせて使うことができます。例えば「买几个都行/买多少都行」は「何個買っても大丈夫」という意味になります。


例文:

“妈妈,今天我可以吃几个饺子?”“吃几个都行,今天做了很多。”


訳文:

「おかあさん、今日は餃子何個まで食べていい?」「何個でもいいよ。今日いっぱい作ったから。」

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訳文

今日のリスニング


こんにちは!直近の二話の「寺院愛」では私が二人の仏教の師匠に弟子入りしたことをお話ししました。一人は私が一歳の時、もう一人は六歳の時でした。師匠が二人いても大丈夫かついて多分疑問に思う方もいるのではないでしょうか。答えは、あなたが一般人であれば、言い方を変えると、「俗世に居ながらの仏教の弟子」であれば問題ありません。「俗世に居ながらの仏教の弟子」というのは出家してお坊さんや尼さんになるようなことはせず、一般人の身分を保ったまま仏教に帰依するという意味です。このタイプの弟子は剃髪する必要がないので、「帯髪(髪を帯びている、髪を残している)の弟子」という呼び名で呼ばれることもあります。


私の地元では「俗世に居ながらの仏教の弟子」なら何人師匠が居ても大丈夫です。むしろ多いほうが良いと言われています。師匠が沢山いれば、あなたを守る力もその分強くなります。もちろん、弟子としての責任は存在します。弟子入りする際に支払う手数料のほか、原則では師匠が困っている時助けに行く必要があります。例えば師匠が体調を壊したら看病しに行かなければならないし、亡くなったら見送りに行かなければなりません。何事もない普段も、師匠がいるお寺にお線香をあげたり、お土産やお供物を贈呈する必要があります。中国語にはこんな言い方があります。「一日でも弟子入りしたら、師匠を一生父親のように扱わなければならない。」まさに自分の師匠を敬愛しようという道理を説いています。


逆に弟子も師匠に自分を助けてもらう権利があります。例えば家族が亡くなって、家で法事をやる時、適当にお坊さんを呼んできて念仏してもらってもいいですが、自分の師匠に来てもらって、読経して故人を送ることもできます。


ただ今の人たちはみんな忙しいので、師匠を敬う様々な責任を全うするのは難しいです。特に実際にお寺に泊まり込みで看病するなんてとてもじゃないけどできません。多くの人は弟子入りした後ほとんど何もしないのが実情です。せいぜい一年に一回師匠のお寺に訪れて、一回だけお線香をあげて、一回だけお供物をお供えして、ついでに師匠に挨拶を交わす程度のことしかしていません。逆も然りで、本当に師匠を呼んできて何かしてもらうようなことはほとんどしません。師匠も弟子もほとんど関わりのない師弟関係を維持しています。これも一種の現代らしい関係でしょうか。


ただ一つだけ、師匠がお亡くなりになった時、つまり「円寂」した時だけ、お金を出したり、お見送りに行ったりする弟子は多いです。有名なお坊さんが円寂した時はお寺に何千何万もの信者が集まって見送るシーンが見られます。ある程度は師匠のことを思っているのですね。以上のことから考えて、もし師匠の数に上限を設けるのなら、常にある程度思っていられる人数になるのではないでしょうか。一年に一回挨拶に行ける数でもあると思います。