あなたの知らない中国語!

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2021年11月19日(金) 每天五分钟 中国語リスニング 扎根在中国人心里的老故事等16 四大美女・杨贵妃1 中国人の心に根付いた昔話等16四大美女・楊貴妃1

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「2021年11月19日(金) 每天五分钟 中国語リスニング 扎根在中国人心里的老故事等16 四大美女・杨贵妃1 中国人の心に根付いた昔話等16四大美女・楊貴妃1」

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原文

今日のリスニング


大家好!从今天开始我来介绍一下“古代四大美女”的最后一位,杨贵妃。这也是一位日本人比较熟悉的美女了。杨贵妃原名杨玉环(公元719-756年),因为后来成为了唐朝唐玄宗李隆基的贵妃,所以后世都叫她杨贵妃。杨玉环身材丰满艳美,擅长歌舞和乐器,是唐代宫廷音乐家和歌舞家,其音乐才华在历代皇后和妃子中十分鲜见。


但是杨贵妃其实并不是一开始就是唐玄宗的妃子。杨玉环出生于弘农杨氏一家。曾祖父杨汪是隋朝的上柱国、吏部尚书(唐初被李世民所杀)。父亲杨玄琰是蜀州司户,叔父杨玄珪曾任河南府土曹,可以说是一个政治世家,和朝廷有着一定的关系。杨玉环能够能歌善舞精通音乐,和这个优越的教育环境是分不开的。


而也正因此,开元二十二年七月(734年),唐玄宗的女儿咸宜公主在洛阳举行婚礼,杨玉环也应邀参加。在这次婚礼上咸宜公主的胞弟寿王李瑁对杨玉环一见钟情,而李瑁的母亲武惠妃正是唐玄宗当时最为宠爱的妃子。武惠妃为了让自己的儿子得到心仪的美人,便向唐玄宗提议两人成亲,于是唐玄宗当年就下诏册立她为寿王妃。婚后杨玉环和李瑁的关系甜蜜异常,据说是一对十分恩爱的夫妻。


不过在开元二十五年(737年),武惠妃逝世,玄宗郁郁寡欢。当时虽然唐朝的后宫里有数千美女,但是没有一个让玄宗中意的。这个时候有人进言说李瑁的妻子杨玉环资质非凡,可以填补玄宗心里的空缺。于是唐玄宗就将杨玉环召入了后宫之中,发现这个女子的确非常有魅力。但是就这样明目张胆地把儿子的老婆抢过来显然会影响到自己的名声,也对不起儿子。


于是在太监(宦官)高力士的参谋下,唐玄宗先是在开元二十八年(740年)十月以为自己的母亲窦太后祈福的名义,下旨命令杨玉环出家为女道士,道号“太真”。随后在五年后的天宝四年(745年),唐玄宗给儿子寿王李瑁另立了一个王妃之后,自己再将杨玉环立为自己的贵妃。因为玄宗自从以前废掉皇后之后再没有立新皇后,因此最受他宠爱的杨贵妃就相当于皇后的级别。


杨玉环就这样被唐玄宗得到了,那么她为什么会这么得宠呢?杨玉环成为贵妃之后是不是一帆风顺呢?我们下一集再讲。

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今日の単語とフレーズ


恩爱

一般指夫妻关系和睦,互相相爱。

夫婦が仲睦まじいこと。


例文:

“我的要求不高,就是能找个好男人一辈子恩恩爱爱的。”“你这要求还不高?”


訳文:

「高望みはしないけど、いい男を見つけて一生仲睦まじく暮していけばそれでいい。」「高望みじゃん!」

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訳文

今日のリスニング


こんにちは!今日から「古代四大美女」最後の女性(順不問)、楊貴妃についてお話ししたいと思います。この人も日本人にとって馴染みのある美女だと思います。楊貴妃(719年-756年)の元の名前は楊玉環です。後に唐の時代の皇帝である玄宗李隆基の貴妃になったため、後世は彼女を楊貴妃と呼ぶようになったのです。楊玉環はふくよかな体型で色気があり、踊りと楽器が得意です。唐の時代の宮廷音楽家兼舞踏家で、歴代の皇后や妃の中でまれにしか見ない音楽の才能の持ち主です。


しかし楊貴妃は最初から唐玄宗の妃ではありません。楊玉環は弘農(現河南省三門峡市霊宝市付近)にある楊家に生まれました。曾祖父の楊汪は唐の前の時代の隋の上柱国(中央政府にいる軍事の最高将校)や吏部尚書(官僚を管轄する人事部長(時代によって権力の大きさが違うがこの時代はかなり高い官職のはずです)を努めてきました(唐の初期に唐太宗李世民に殺された)。父親の楊玄琰は蜀州(現成都市が運営している四川省の崇州)の司戸(官職)を努めました。叔父さんの楊玄珪は河南府の土曹(官職)でした。政治家や役人の家庭で、朝廷(政府)と一定の関係を保っています。楊玉環が踊りと音楽に精通できたのはこのような良好な教育環境と切れない関係にあるからだと思います。


そのような家庭の生まれですから、開元二十二年七月(734年)、唐玄宗の娘である咸宜皇女の結婚式が洛陽で開かれた際に楊玉環も誘われました。結婚式の場で咸宜皇女と同じ母親を持つ弟寿王李瑁が楊玉環に一目ぼれしました。その時李瑁の母親である武恵妃は唐玄宗最愛の妃でした。自分の息子が好きな美人を手に入れるために、武恵妃は唐玄宗に二人の結婚を提案しました。すると唐玄宗はその年に詔を出し、彼女を寿王李瑁の妃としました。結婚後二人はラブラブで、仲睦まじい夫婦と言われています。


ところが開元二十五年(737年)、武恵妃が死去したせいで、玄宗が憂鬱な日々を送っていたそうです。当時唐の大奥に数千の美女がいましたが、玄宗の目に叶う人は一人もいませんでした。その時誰かが李瑁の奥さん楊玉環には美貌も才能も並々ならぬものがあり、玄宗の心の穴を埋められるのではないかと進言しました。楊玉環を宮中に呼んだら本当に素晴らしく魅力的な女性でした。ただあからさまに息子の奥さんを奪うのは自分の名声に傷がつくし、息子にも申し訳ないことです。


宦官高力士の計画を借りて、唐玄宗は先ず開元二十八年(740年)に自分の母親竇太后への祈祷のためという名目で楊玉環に道家への出家を命じました。道号(道教修行人がもらう道家での名前)は「太真」でした。更にその五年後の天宝四年(745年)に唐玄宗は奥さんを失った息子の寿王李瑁に新たに妃を与えて、自分は楊玉環を貴妃にしました。前に皇后を廃してから新しい皇后を立てていなかったため、一番寵愛している楊貴妃が事実上の皇后級になりました。(結局奪ったやないかい!)


このように楊玉環は唐の玄宗の貴妃になりましたが、では何故彼女がこんなにも寵愛されたでしょうか。また貴妃になってからは順風満帆だったのでしょうか。次回でお話ししたいと思います。